小室サウンドとは何だったのか
小室の曲をあらためて聴いてみて、ぼくの中では完全に過去の曲になってしまっているのに気づき、軽い驚きを覚えました。
毎年何百という曲が生まれ、その99%以上がすぐに忘れられていきます。そうした忘れ去れた曲を何かの偶然で聴いたときのような、既視感をともなった虚脱を小室の曲に感じたのです。
小室の曲には、高い志しがあると思います。革新性といってもいいと思います。でも音楽が残っていくのにはそれだけでは十分ではないのだとも思います。才能が消費されていくスピードの速さといってしまえばそれまでですが、しかし普遍性というところにまで到達できなかった小室の限界というのもあると思います。
小室の曲は、たぶん彼が選択したキャラクターによってしか演奏できないでしょう。華原朋美の曲にしても、彼女より上手な歌手が歌っても様にならないし、かといって、それより下手な歌手には歌えないという、微妙なバランスの上になりたっています。また小室の曲は、彼以外の編曲は受け付けないでしょう。小室サウンドとは、小室自身による編曲の魔術であり、他の人が編曲すれば、それは凡庸にしか聞こえないはずです。つまり彼の世界の中で完結しているのです。この時点において、曲が他のアーティストによってアレンジされ、歌い継がれていくという普遍性につながる部分が排除されているのだと言えます。
歴史的に例えるなら、彼はリストに相当する人物なのかもしれません。現代からみれば、リストはそれほどポピュラーな音楽家ではありません。同じ時代の人物ならば、ショパンの方がはるかにポピュラーです。膨大な数の作品を残しているにもかかわらず、リストの曲でよく演奏される曲は限られています。しかし、生前の評価は逆なのです。スタープレーヤーといえばリストの方なのです。それにいろいろな実験的な試みを取り入れようとしたのもリストです。
リストは、華麗なピアノの演奏テクニックによっても人々を魅了しました。彼の作曲した曲は、彼以外には演奏できないような技巧をこらした曲でした。そういう意味では、彼は自分の中で完結していたとも言えます。
革新性が、その革新性の故に自己完結に陥り、歴史から脱落していくこと、それはたぶんいつの時代にでもあり得ることなのでしょう。











