2008年11月19日

小室サウンドとは何だったのか

 小室の曲をあらためて聴いてみて、ぼくの中では完全に過去の曲になってしまっているのに気づき、軽い驚きを覚えました。

 毎年何百という曲が生まれ、その99%以上がすぐに忘れられていきます。そうした忘れ去れた曲を何かの偶然で聴いたときのような、既視感をともなった虚脱を小室の曲に感じたのです。

 小室の曲には、高い志しがあると思います。革新性といってもいいと思います。でも音楽が残っていくのにはそれだけでは十分ではないのだとも思います。才能が消費されていくスピードの速さといってしまえばそれまでですが、しかし普遍性というところにまで到達できなかった小室の限界というのもあると思います。

 小室の曲は、たぶん彼が選択したキャラクターによってしか演奏できないでしょう。華原朋美の曲にしても、彼女より上手な歌手が歌っても様にならないし、かといって、それより下手な歌手には歌えないという、微妙なバランスの上になりたっています。また小室の曲は、彼以外の編曲は受け付けないでしょう。小室サウンドとは、小室自身による編曲の魔術であり、他の人が編曲すれば、それは凡庸にしか聞こえないはずです。つまり彼の世界の中で完結しているのです。この時点において、曲が他のアーティストによってアレンジされ、歌い継がれていくという普遍性につながる部分が排除されているのだと言えます。

 歴史的に例えるなら、彼はリストに相当する人物なのかもしれません。現代からみれば、リストはそれほどポピュラーな音楽家ではありません。同じ時代の人物ならば、ショパンの方がはるかにポピュラーです。膨大な数の作品を残しているにもかかわらず、リストの曲でよく演奏される曲は限られています。しかし、生前の評価は逆なのです。スタープレーヤーといえばリストの方なのです。それにいろいろな実験的な試みを取り入れようとしたのもリストです。

 リストは、華麗なピアノの演奏テクニックによっても人々を魅了しました。彼の作曲した曲は、彼以外には演奏できないような技巧をこらした曲でした。そういう意味では、彼は自分の中で完結していたとも言えます。

 革新性が、その革新性の故に自己完結に陥り、歴史から脱落していくこと、それはたぶんいつの時代にでもあり得ることなのでしょう。

2008年11月15日

ニホンザル

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 山科区にニホンザルが出没するという話題は以前から知っていましたが、先月はじめて本物に出会いました。場所は、国道1号線の東山トンネルの手前です。山科区は、どこにいても、1kmも行けば山に突き当たるような地形なので、サルが出てきても不思議ではないのですが、やはり動物園以外でサルを見ると、ちょっと不思議な感じがします。

 3匹が歩道に出てきて、柿をかじっていました。近寄るとすぐに藪の中に逃げていきました。警戒心は強いようです。

2008年10月26日

狭小住宅はテーマとなり得るか

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 狭小住宅に明確な定義はないのですが、通常は敷地面積が15坪(50平方メートル)以下の住宅を指すようです。一時期、狭小住宅が雑誌等で盛んに取り上げられました。そうした場合には「建築家が設計した」という枕詞が付けられることが多かったように思います。なぜ建築家が狭小住宅を設計するのかについては、いろいろな視点から論じることができますが、現実的な理由から言っても、狭小住宅は建築家が設計するのに適していたからです。

 狭い敷地で、しかも変形の敷地となると、住宅メーカーでは対応できません。標準設計を当てはめることができず、規格の部品も使えなくなるので、採算が合わないからです。工務店はといえば、専門は施工することです。図面があれば施工はできますが、ひとつひとつ異なる敷地に合わせて図面を描かなければならない場合には、専属の設計者を置いている場合以外は不可能でしょう。そこで建築家の出番ということになります。

 何よりも、建築家は面積を操作するプロです。生活動作に必要な面積を最適に配分することは、もっとも得意とすることです。もちろん効率よく面積を配分するとしても、限度というのはありますが、それでも少ない面積で快適な生活を実現するというのは、挑戦し甲斐のあるテーマです。

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 実は、狭小住宅と建築家との関わりは今に始まったことではなくて、1950年代にブームがありました。その頃の住宅は、現在狭小住宅と呼ばれるものよりもさらに狭いのですが、機能を絞ることや、構造上の工夫によって、十分な居住空間を実現しています。それらからは、清々しい印象すら受けます。予算の制約というのはいつの時代も付きまとうものですが、この時代においては、欲しいものを我慢するというのではなく、本当に必要なものだけを取捨選択していく動機にしているようにも見えます。

 そう考えたとき、現在にあっても、狭小住宅は住宅の原点を考える契機になり得るとも言えます。しかし現実には、現在の狭小住宅は単なるダウンサイジングになっている場合が多いようです。つまりもっと広い住宅で採用されるプランニングの考え方を、そのまま縮小して当てはめるやり方です。これでは狭小住宅に積極的な意味は見出せないということになります。狭小住宅がテーマとなり得るためには、ライフスタイルにまで踏み込むような議論が必要になってきます。

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 それと、限られた面積の中での帳尻合わせはできたとしても、それは個別解に過ぎません。もちろん建築は一品生産であり、それぞれの敷地、それぞれの建築主に合わせる必要があります。しかし同時に、建築は一般解でなければならないのです。狭小住宅が建築家にとってテーマとなり得るかどうかは、その時代の技術、その時代の思想が、形式にまで昇華されているどうかにかかっているのです。

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 狭小敷地ということで、間口が4m、奥行きが15mの敷地を想定しています。敷地面積は60平方メートル(18坪)です。自動車のガレージを設ける場合は、4mという間口はほぼ限度だと思います。

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 床面積は、1階と2階を合わせて44.4平方メートル(13.4坪)です。この床面積は、初期の公団住宅とほぼ同じです。道路に面してガレージがあり、ドアを開けて中庭にでます。中庭から居住部分に入るようになっています。将来増築が必要になった場合、中庭や中庭の上部を利用することができます。

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 こうした構成の場合、奥にいくほどプライバシーの濃度が高くなるのですが、街並みにたいしては閉鎖的になります。そこで2階の高さで、道路から奥の居住部分まで通路(バルコニー)を設けています。いわば町家の通り庭の翻案です。ガレージ上部に部屋を増築した場合、この通路が廊下として機能することになります。

2008年10月22日

非ユークリッド幾何学

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 「三条御池」とは、三条通りと御池通りとの交差点を意味します。京都が条坊制の街であることを知っている人は、東西の通りである三条通りと、同じく東西の通りである御池通りが、いったいどうして交わることがあるのか不思議に思われるかもしれません。縦横の道路網ならば、平行する道路同士が交わるということはありえないからです。

 しかし実際に縦横の区画が厳格に守られているのは中心部だけで(といっても、道路が屈折していたり、部分的に斜めだったりすることはあります)、周辺ではかなり区画がゆがんできます。平行だったはずの道路も、いつのまにか斜めに逸れていくことがあります。そうしたわけで三条通りと御池通りが交差するということが起きるのです。

 周辺で区画が崩れているのは、地形的な理由もあるでしょうし、ずっと後の時代にそうなったのかもしれません。でも、もし平安京建造当初から意識的にそうしていたとしたら、それはかなり興味深いことだと思います。

2008年10月13日

町家型住宅プロトタイプ

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 敷地の間口が6mで、その間口いっぱいにガレージ付の住宅を建てるプロジェクトです。面する道路の幅は4~6mを想定しています。街中ではよく見かけるような敷地です。
 街並みの印象は、建物と道路との関係でほとんど決まってくると私は考えています。フェンスの有無、道路境界線からの建物の「引き」等。建物と道路の間に距離があれば、その距離によって自然にプライバシーが守られるのですが、建物を道路に寄せた場合には、入口や窓を工夫することでプライバシーに配慮する必要があります。窓格子等の町家のデザインは、そうした必然性から出てきたとも言えるでしょう。

 伝統として引き継がれるものには、必然性が隠されています。問題はそれをいかにして抽出するかです。そこには現代人の恣意性が入り込む余地があり、似ても似つかぬ結果になることさえあるのですが、そうした格闘を抜きにして、都市住宅を語ることができないというのも確かです。

 両側を隣家の壁に挟まれているため、採光や通風が確保しにくいというのが町家に課せられた条件です。それをどういう形式に昇華するかが町家の本質だと思います。
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壁と屋根を取り去るとこのように見えます。


 RC(鉄筋コンクリート)造の平屋の箱を、鉄骨造の上屋で覆います。RC造の部分と鉄骨造の部分とは、構造的にはつながっていません。全体としては2階建てですが、構成としては、スキップフロアを持つ鉄骨造のワンルーム空間と捉えることもできます。
 RC造部分には、ガレージ・水回り(浴室とトイレ)・主寝室を納めます。機能上閉ざすことが必要な部分で、寝殿造りの塗籠(ぬりごめ)に対応します。それ以外はオープンなスペースです。そのまま使うこともできれば、間仕切りを入れて区切ることも容易にできます。寝殿造りでは、塗籠以外の部分には壁がなく、必要に応じて家具や調度品で仕切って生活していました。行なわれる行事に応じて家具や調度品の配置を変えることを「しつらえ」と呼びます。日本建築のフレキシビリティーを示す例として、襖や障子の使用がよく取り上げられますが、さらに時代を遡れば、「しつらえ」というもっとフレキシブルな方法があったのです。フレキシブルということは無秩序を意味するのではありません。機能上の必然性があるものにはそれに応じた形態を与え、それ以外は使う人の自由に任せるという、柔軟な思考があったのだと思います。

2008年10月08日

ガソリン価格と交通政策

 一時期、1リットルあたり200円を超えるのではないかといわれたガソリンの価格ですが、最近は少し下がってきています。といってもまだまだ高水準ではありますが。

 でもガソリンが高いと言う場合、漠然とそう言うだけではなく、何に対して高いのか考えてみる必要があります。もちろん収入に対して高いということなのですが、その前にもう少し細部を検討する必要があります。交通手段ということでは、公共交通機関という代替手段があります。ガソリンが本当に高いのであれば、代替手段への移行が起こって当然なのですが、そうした移行が進んでいるとは思えません。ということは、現在のガソリン価格は、まだまだ許容範囲にあるのだとも言えます。

 同じ場所に行くのに、公共交通機関と自家用車の場合を比較してみます。公共交通機関で1000円かかる場所に行くのに、自家用車でガソリン代が 1200円かかるとします。かかる時間は同じだとします。経済原則からすれば、公共交通機関を選択するという結論になるでしょう。でも実際は違うのです。自家用車なら、自宅から駅まで歩く必要がありません。雨の日に傘をささずにすみます。電車の乗り換えの手間もありません。車の中で好きな音楽を聞くこともできます(ヘッドホンを使えば電車でも可能ですが)。これらをすべて考慮したうえで、自家用車が選択されるということなのです。額面の数字だけで交通手段の選択が行われるわけではありません。ですから、公共交通機関を選択させたかったら、ガソリン代はもっと高くてもいいということなのです。

 交通政策という観点からすれば、国民にアクセシビリティーを保証することが基本になります。公共交通機関が整備された地域で、それでも自家用車に乗りたいという人がいれば、その人には相応のガソリン代を負担してもらえばいいのです。長期的なヴィジョンや、環境のことなどを考えれば、ガソリン代はヨーロッパ並みに、1リットル250円から300円でもいいと思います。

 公共交通機関を整備しても、利用者が少なければ、収支は赤字になります。赤字を解消しようとして運賃を値上げすれば、交通手段は自家用車にシフトし、公共交通機関の利用者はますます少なくなります。今現在でさえ、額面に現れない効用まで含めたら、自家用車の方が割安だと多くの人が考えているのですから、公共交通機関の値上げは、ますます格差を広げるだけです。そして自家用車を持たない人などの、本当に公共交通機関を必要とする人にしわよせが行くことになるのです。

 10月1日の京都新聞には、「京都市営地下鉄、運賃大幅上げも 資金不足 全国最高290億円」という記事が載っていました。

   巨額の建設費が原因で、1日当たりの収入7000万円に対し、
   利子を加えた建設費返済金は7600万円。人件費などの運営
   費を引くと毎日4300万円の赤字を続けている。

せっかく地下鉄を整備しながら、自家用車の規制に踏み込めないということが、交通政策の矛盾を示しています。鉄道やバスに関する政策と、自動車に関する政策は、本来は別々に考えられるものではないのです。アクセシビリティーの確保という観点から、総合的に考えられなければなりません。市街地への自家用車の進入規制という直接的な手段が採れないならば、ガソリン税を引き上げる等の間接的な手段を採るしかないでしょう。ガソリン価格が上がったとしても、それは受益者負担ということですから、不平等ではありません。

 ひとつ問題なのは、鉄道や地下鉄路線のない地方ではどうするかということです。自家用車以外交通手段がない地域というのは、まだまだたくさんあります。そうした地域には、ガソリン税を減免するなどの措置が必要でしょう。公共交通機関の普及率に応じてガソリン税や自動車税の税率を決めるというルールでもいいかもしれません。

2008年09月27日

『ぼくの伯父さん』

 先週に引き続いて、京都駅ビルで映画を見ました。ジャック・タチ監督・主演の『ぼくの伯父さん』というコメディーです。

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 ひとつひとつの動作、ひとつひとつの場面、すべてが笑いを誘います。たとえば主人公の少年ジェラールの家は、近代建築の見本のようなつくりなのですが、門と玄関を結ぶアプローチがS字を描いています。来客はS字に沿って玄関に向かい、出迎える側は同様に玄関から門の方へS字に沿って歩きます。そしてS字の真ん中で出会うという設定です。ただこれだけのことなのですが、それが劇的な効果をあげていて、自然と笑いが込み上げてくるのです。

 この映画の笑いは、言葉によるものではなく、動きによるものです。動作の反復や、決まった手順に沿って行動することが、笑いに転化してしまうのです。

 ジェラールの家では、家事はオートメーション化されています。ドアや窓の開閉は電動、掃除は掃除ロボット。キッチンで料理の味付けをする時も、ソースはホースのノズルから出てきます。自分の手でやった方が効率が良いことまでも、無理やり機械にさせているようで、それが滑稽です。しかし、行き過ぎた近代化を笑い飛ばそうという趣旨ではないと思います。たとえばユロ氏(ジェラールの伯父)が住んでいる古いアパートは、迷路のような廊下や階段を抜けないと、最上階のユロ氏の部屋にたどり着けません。彼はこの動作を毎日繰り返すのです。それだけではなくて、部屋に帰ると窓を開け、隣人が飼っている小鳥にあいさつをします。こうした決まり切った動作が、なぜかユーモラスなのです。ですからこの映画の笑いは、登場人物の型にはまった動作や、それを反復することへのこだわりに起因するのだと思います。

 動作の本来の目的がどうであれ、手順を反復することへのこだわりが笑いに転化する例は、けっこう身近にもあります。たとえばファーストフード店のマニュアル通りの接客などは、この映画の笑いのセンスにかなり近いと言えるでしょう。

 動作や手順が、合理的でないこと、その場面の雰囲気と違うこと、意味がない程に過剰であること、これらが笑いの源泉だとすれば、その笑いはこれらの源泉への批判でもあるのですが、笑いの効用はもちろんそれだけにとどまるものではありません。ユロ氏が住む昔ながらの下町にも、ジェラールが両親と住む近代化された家にも、等しく笑いが生まれるということが重要だと思います。

 古い街並みや昔からの習慣を大事に守っていこうというこだわりは、時として滑稽に映ることもあります。でもそれでいいのです。こだわりがなくなってしまえば、古いものの保存は行われなくなってしまいます。こだわりは、文化であると同時に笑いの種でもあります。無理に分ける必要もないというより、分けられないものなのです。同様に、近代化された家に住むというこだわりも、傍から見れば笑いを誘うだけなのかもしれません。でもそれでいいのです。それが文化というものです。

 文化は、その成り立ちからして、笑いを内包しているのです。逆説的に、笑いをもたらさないものには、文化と呼ばれる資格はないとも言えます。

2008年09月21日

『昼顔』

 今年は、京都市とパリ市が姉妹都市提携を結んでから50周年にあたるそうです。それを記念して、京都駅ビルでは、フランス映画祭が開催されています(9月28日まで)。

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 先日京都駅に出かけたとき、たまたまルイス・ブニュエル監督の『昼顔』を上映していたので、見てきました。

 数字を演算記号でつないでいくとします。たとえばこんなふうに。

 1+2-3×4÷5+6×7÷8-9

読むときは左から読んでいきますが、計算の順序は左から順番ではありません。かけ算と割算が先です。かけ算と割算が一通り終わった後で、左から順番に足し算と引き算とが行われ、答えがでます。この場合はそうしたルールが確立しているので、誰が計算しても答えはひとつです。しかし途中に( )を挿入すると、計算の結果は変わってきます。たとえば、

 1+(2-3)×4÷5+6×7÷8-9 あるいは
 1+2-3×4÷(5+6×7)÷8-9

( )内がかけ算や割算よりも優先するというルールがあるからです。( )の位置が決まれば当然それに対応したひとつの計算結果が出るのですが、もし仮に、( )の位置を計算する人が自由に設定できるというルールだったならば、何種類もの( )の設定があることになり、答えはひとつには決まりません。『昼顔』はそんな映画なのではないかとふと思いました。

 映画の鑑賞には、もちろんどこに( )を入れるかというルールはありません。時間の経過に沿って見ていくだけで十分な映画もありますが、『昼顔』のように、鑑賞者が独自に( )を挿入することなしには意味をなさない映画もあります。『昼顔』は、( )を挿入する位置次第でまったく意味が正反対になるような映画です。

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 映画の冒頭の場面。現実の場面だと想定して見ていると、それはどうやら妄想なのだということがわかってきます。ここで現実と妄想とを区別しなければならないという大まかなルールは理解できますが、それ以降の場面をどう区別していくのかは見る人それぞれの判断です。たとえば過去のフラッシュバックとされる場面。現実にあった過去なのか、それともこれもまた主人公の妄想なのか、それは鑑賞者の判断に任されています。

 表面的には何不自由ない生活を送る人妻、その心に潜む空虚、自分探しの旅。そんなふうに語られがちなストーリーですが、そこに主人公の内面を見出すのは間違いだと思います。というよりも、主人公の心理に寄り添い、感情移入していくという通常のドラマのあり方が、ここでは完全に反転されているのです。カトリーヌ・ドヌーブ演じる主人公に内面の葛藤はありません。あるのは、現実と妄想との対比、娼館で働く彼女と普段の彼女との対比として画面に表現されたものだけです。内面が外面化されて見る人に晒されてしまっていると言ってもいいかもしれません。ですから既に主人公には内面は残されていないのです。主人公の葛藤に代わって、判断は鑑賞者に委ねられることになります。映画の中に現れる場面を妄想と受け止めるとしたら、それは主人公の妄想ではなく、鑑賞者の抱く妄想なのです。

 こうして、画面に主人公の動きを追いながら、実は鑑賞者は自分自身を眺めていることになります。ここでは映画を見るという行為は、画面との対話ではなく、ひたすら孤独なモノローグになります。

2008年09月14日

『ダークナイト』

 バットマン・シリーズは基本的には寓話です。イソップ寓話に登場する動物がそうであるように、登場人物はまったくのステレオタイプであっても構いません。普段は決まりきった行動が物語として繰り返されていくだけです。しかし時として、物語を成立させる根源の部分が露呈してしまうことがあります。それが寓意です。寓意によって、登場人物にステレオタイプを強制していた枠組そのものが無効になり、これまでの価値観をリセットする必要に迫られます。

 ティム・バートンの『バットマン』(1989年)は、まさしくそうした寓話の構造を取っていました。正義と悪の根源という主題は、設定された登場人物のステレオタイプな動きの中から、結果として浮かび上がるものとされていました。それに対してクリストファー・ノーランの『ダークナイト』(前作の『バットマン・ビギンズ』も同様です)は、正義と悪の根源という主題を真正面から描き出そうとします。そのために、登場人物の心理面の描写が重視されます。いわば人間ドラマとして再構成しようということなのでしょう。

 バートンとノーランを比較するならば、やはりバートンに軍配が上がります。つまり、寓話によってしか描けないものがあるということです。どんな名優を配したとしても、心理描写として描かれる善悪などは、すでに解釈済みの善悪でしかありません。もちろんそれは一定の説得力は持つかもしれません。しかしそれが理解されやすいのは既視感があるからであり、その時点で既に、新鮮な感覚や体験ではなくなっているからです。これに対して寓話は、リアリズムを始めから放棄しています。あくまで仮説としての物語ですから、その先の話を信じようと信じまいと、それは鑑賞者の自由です。また結果をどう解釈するかも鑑賞者の自由です。解釈はひとつとは限らないでしょう。しかしいずれにしても、結果としての寓意が、私たちの日常的な思考の枠を軽々と乗り越えるポテンシャルを持っているということだけは確かです。

 『バットマン』の寓意とは、結局、正義と悪とは不可分だということでした。『ダークナイト』は、この結論を出発点にして、それをいかに観客にわかりやすく提示するかという観点から構成されています。両方の映画から受ける印象は似ていますが、方向性はまったく逆です。『ダークナイト』では、寓話が寓話である間だけ持ち得る先鋭性は始めから失われています。

2008年08月30日

都市型の水害

 台風の被害は昔からありますが、最近では台風ではない豪雨の被害が増えています。しかもそれが平坦な都市部で、狭い範囲に集中するというのが特徴です。

 これにはふたつの側面があります。ひとつは気象的な側面。温暖化やヒートアイランド化が関係しているといわれています。もうひとつは、都市のインフラ的な側面。たとえば、都市部では地表がコンクリートやアスファルトで覆われているので、雨水は即座に河川や下水道に流れこみます。それがそれらの排水施設としての許容能力を超えてしまい、路上に水が溢れるという結果をもたらすわけです。またヒートアイランド現象の大きな要因は、水の蒸発熱による地表の冷却が行なわれなくなったことだと言われているので、地表をコンクリートやアスファルトで覆ってしまうことは、二重の意味で都市型の水害の原因になっているとも言えます。

 インフラ面について言えば、建築のつくりについても考えてみる必要があるでしょう。台風などで増水が予想される地域では、家は高台につくられたり、あるいは平地の場合でも地盤を少し上げて建てるという工夫がされてきました。最近は治水技術の進歩もあって、そうしたことに無頓着になってきているのかもしれません。都市部では、地下階や地下街等、水害に対して脆弱性をかかえる施設が次々とつくられています。もちろんこれらの施設では、ポンプによる排水が行なわれるようになっていますが、停電や発電機の故障等、複合的な事故を想定すれば、絶対に安全とは言い切れません。

 住宅についても、利便性やバリアフリーの視点からは、居室が1階にあって、床が低い方がいいのですが、住宅が水に浸かるような状況を想定すれば、高床式や2階に居室のある住宅の方がいいということになります。また構造的にも、地震に対して安全なだけでなく、水に流されないような構造というのが必要になってくるでしょう。そうすると、木造でいいのかどうかという議論にもなってきます。

 水害というネガティブな要因に促されたものだとはいえ、これからはその地域ごとの特性を考えた建築というのが必要になってくると思います。

これ以前のエントリーは、アーカイブページにあります。


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