2010年07月27日

江國香織の小説

 江國香織の小説には時間の進行がない。ひたすら現在だけがある。過去のエピソードといえば、現在から類推可能な範囲のものだけ。未来は、現在の単純な延長であることがあきらかだ。変化や成長といった言葉が入り込む余地はない。

 そして、彼女の小説には、嫌なものが登場しない。最初はちょっと嫌に見えるエピソードも、実際にはたいしたことがないというのがすぐにわかる。

 だから物語は、進行しているようでいて、進行していない。登場人物たちにとって心地よいものをひたすら羅列していく。料理やケーキをつくる場面がよく出てくるが、物語全体が、まるでそうした料理やケーキのようだ。わざわざバランスを崩すような材料を選ぶ人はいない。彼女が選んだ材料でつくられた彼女だけの世界。

 例えば『流しのしたの骨』。予定調和のように仲の良い6人家族の物語。不幸な人間が一人も出て来ないのは、誰も不幸にしないと彼女が決めたからだ。家族の物語でありながら、家族の起源は描かれない。つまり両親がどうやって出会い、どういう過程を経て今に至るのかは明かされない。そして、子供たちはそろそろ独立する年齢であるにもかかわらず、両親を離れて新しい家族をつくる指向性を持たない。つまりこの家族は、種族の再生産を行なう単位という意味での家族ではない。父は父の役割を、母は母の役割を、娘や息子は子供としての役割を、それぞれ完璧に演じているが、誰も行動の根拠を持たない。家族が社会的な再生産から切り離されたら、父や母であるという意識、子供であるという意識を与えるものがなくなるはずだからである。だからこれは、家族の物語であって、実は家族の物語ではない。

 こうして、物語は奇妙な浮遊感を獲得する。登場人物は、生まれたときから現在のような性格や性癖を持っているかのようである。自分がどこから来てどこに向うのかにはまるで無頓着である。自分のアイデンティティーを支える根拠がなくても生きていけるかのようである。自分探しの物語とは正反対。社会のある程度の豊かさが、こうした登場人物のあり方の根拠になっているのかもしれないが、作者は意図的に社会との接点を切り離そうとしているように見える。そして社会との最期の接点である家族までも括弧に入れて棚上げしているように見える。

 生産関係が意識を規定するという近代的知の枠組みに対する批判として、江國香織の小説を読むことは可能かもしれない。家族という擬制を採っていても、登場人物の間になりたつ関係は家族ではない。各人は、実は放り出された自由な個人なのだ。

 しかし、そうして得た自由の行き先はどこにも示されていない。生産関係を括弧に入れるということは、現実逃避と裏腹である。つまり都合の悪いことを忘れてしまうだけで終わるのかもしれない。それが新しい可能性を開くのか、それとも単なる現実逃避なのか、むしろその選択を彼女の小説は問いかけているのではないか。

2010年06月26日

『告白』

 映画『告白』を見た。湊かなえの原作を中島哲也が映画化している。

 少年法への問題提起と捉えることには意味がないだろう。主人公の少年が、幼少期の精神的な傷を引きずっているという解釈にも意味がないだろう。

 おそらく作者には、ここで提起されているかに見える問題に答えを出そうという意図はなかっただろう。では何が作者にこのストーリーを書かせたのか。ある条件の組み合わせがもたらすストーリーの自律的な進行が、彼女の関心だったような気がする。少年法は、そうした条件のひとつに過ぎない。だからここで少年法の是非を問題にしても仕方ない。少年法は、ある種のダブルバインド状況をつくりだすための道具立てである。HIVや熱血教師や過去の猟奇的事件も、そうした道具立てである。いくつかの条件が互いに規制しあい、軋轢を起こし、思わぬ効果を生む。作者は、そうした条件がつくりだす世界を、善悪の判断を保留したまま記述するのだ。善悪の判断を保留することによって、これまでの常識的な物語はあっさりと飛び越えられてしまった。

 それぞれの条件は、手術台の上でこうもり傘とミシンが出会ったときのように反発しあい、思いもかけぬ方向に弾き飛ばされる。自動筆記のように、与えられた条件からの演繹で物語は進行するのだが、その行き先は作者でさえも知らない。

 与えられた条件に登場人物はなんらかの反応を示すわけだが、しかしその条件がダブルバインドになっている場合、反応には跳躍が伴う。つまり反応を正当化する根拠はさしあたって見当たらない。反応が一通り出揃った後で初めて、その意味を反省することが可能になるが、その時にはすでに手遅れと言っていい。例えば、少年AとBを断罪することの正当性。クラスメイトが少年Bに送った寄せ書きには、表向きとは正反対のメッセージが込められていた。行き場を失った正義感がこうした裏のメッセージとして現れたという解釈はできるかもしれないが、そうすることが正しいとは誰も言うことができない。人間の反応は、どちらでもあり得る。それは少年AやB、復讐する女教師についてもあてはまる。

 自動筆記によって書かれたような物語でありながら、われわれは不思議とこの物語に引きつけられる。それは、登場人物のそれぞれに少しずつ感情移入できる余地を残しているからではないだろうか。娘を殺された女教師はもちろんだが、少年Aや少年Bにもどこかで自分を投影させてしまうような経験は誰もが持っているはずだ。つまり虚栄心や優越感、孤独を恐れる気持ち、愛されたいという欲求は、程度の差はあっても誰もが持っているはずだ。いじめはいけないと知りつつも、素朴な正義感がいじめのような行動として現れてしまうことにも、どこかで共感できるものがある。悪と知りつつ惹きつけられることとかもそうだ。

 こうして、観客は登場人物に感情移入していく。もちろん同時にすべての登場人物に感情移入することは不可能なので、その場面ごとということになるが。そうして結局矛盾した内容がすべて観客の心の中に入ってくることになる。だから何が正しいか決められないし、結論を引き出すことは不可能だということになる。さらにいえば、われわれが少年AやBのようにならないとは、誰も断言できないということだ。たまたまそうでないのは、何かの偶然でしかないのかも知れない。

 贖罪がテーマということであれば、ドストエフスキーの『罪と罰』が思い出される。『罪と罰』では、ラスコーリニコフは善意に囲まれていた。善意を前提することで、ドストエフスキーは、あらかじめ答えを用意していた。しかしこの映画では、少年AとBを取り囲むのは悪意だけである。こうした状況の放り込まれてなお、人は贖罪を語りえるのか。『告白』は、本当の意味での『罪と罰』である。

2010年06月05日

近江八幡紀行

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 近江八幡駅前での用件を済ませると、「ぶーめらん通り」と名づけられた駅前通りを私は西に向かって歩き始めた。暑さを予想して夏用のジャケットにしてきたのだが、それでも汗ばむほどの天候だ。

 20分ほど歩くと旧市街に着く。2年ぶりだ。その時の記憶を頼りに、ヴォーリズが関わった建物や、近江商人の町家をいくつか見てまわる。

 旧市街といっても、歴史的な建築物がそれほど多く残っているわけではない。点在しているというのが実状だろう。町家が街並みとして残っている地域はさらに限定される。

 それでも、町としての統一性をかろうじて保っているのは、道路による区画のためだろう。さらに付け加えるならば、かつて下水道として使われていた水路が、建物の間を流れていることだろうか。この水路は八幡堀に注ぎ込む。道路と水路とで構成されるグリッドは、自動車交通のために拡幅された道路を除けば、近江八幡という町が出来たころに遡ることができるだろう。豊臣秀次がこの町を整備したとされる。

 注目すべきは、道路の幅である。当時の交通手段は徒歩が主で、せいぜい馬が通ることがあっただけだ。馬にしても、走って通れるほどの幅ではない。道路に面する建物の表情は、この道路幅が必然的につくりだしたもののように思える。通行人相手に商売をするには、門や庭を介してではなく、直接建物が道路に面する必要があるのだ。道路幅がこれより広くても狭くても、両側の建物とのバランスは崩れてしまうだろう。

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 拡幅された道路もあるが、幹線通りから奥まった道路は以前のままの幅である。しかし、それらの両側の建物は、たいていは建替えられてしまっている。それはもちろん仕方ないことではあるのだが、見ていると、新しい建物でも町になじんでいるものもある。それはおそらく、道路幅を意識した建て方をしているからだ。現代の生活には自動車は欠かせない。だが、家と道路の間を駐車スペースにしたりすると、たちまち街並みは崩れる。また、郊外型の建て方で、道路と家の間を庭にした場合にも、違和感が生まれる。こうした違和感をもたらすこと自体が、道路幅の持つ力の大きさを示している。建替えられてしまった建物に違和感を感じられる間は、われわれの心の中に近江八幡の町が息づいているのだ。

 この町で支配的なのは、道路のグリッドと、道路の幅である。現代的な基準からすれば、使いにくい道路であり、利便性からすれば住みにくい家しか建てられないのかもしれない。だがこの道路幅が維持されるなら、近江八幡らしさも残るような気がする。反対に、たとえ歴史的な建物を保存しようとも、道路幅に手をつけた時点で、この町の歴史は終わるのではないか。

2010年05月26日

養老天命反転地

 荒川修作が5月19日に亡くなった。荒川とマドリン・ギンズの共作による「養老天命反転地」は、出来たばかりの頃に見に行った。養老の滝で有名な、岐阜県養老町にある。1995年の完成だから、もう15年も前のことになる。

 水平でない床、傾いた壁、いびつな開口部。それまで建築で常識とされてきたことに、あえて異を唱えているかのような施設である。常識と違う形態を、ただ見るだけでなく、実際に中に入り、歩き回って体験することで、人間はそれまでとは違う新しい認識を手に入れる、と作者は言う。

 だが、実際にその場所に立ってみて感じたのは、形が常識的でないことによる違和感よりも、むしろ素材に対する違和感だった。写真やスケッチで見るかぎり、卓越するのは形の奇抜さである。しかし、実際にそこに立ってみれば、奇抜さは奇抜さとして意識されるにせよ、はっきり言えばたいしたことがない。それよりも、形態を成り立たせているコンクリートという素材とそれらの形態との間に生じた違和感の方が印象的なのだ。

 コンクリートという素材は、硬いので、ぶつかれば怪我もする。そうした素材が選ばれたのはなぜなのか。体験型の施設ということならば、実際手で触ったり、その上で転んだりもするだろう。その時の印象は、ざらざらした感じ、冷たい感じ、転んだときの痛みとかであろう。それらの印象は、形とはあまり関係ないのではないか。確かにこうした自由な形をつくれる材料はコンクリートしかない。しかしコンクリートでつくられたとき、素材が形以上に主張を始めてしまう。ある意味饒舌な材料であり、ある意味貧しい材料でもある。

 作者は、形と素材との関係をどう考えていたのだろうか。素材を消し去って、純粋に形と色彩の世界を思い描いていたのか。スケッチの段階ではそれもありえる。だが作者は、それが身体によって体験されるべきものになることを願い、実際にそれをつくった。視覚よりも、むしろ触覚を優先させたのだ。ここに矛盾が生じる。

 実際には新しい認識など生まれはしない。この施設のコンクリートの床で転んだときの痛みは、ありふれた普通の建物の床で転んだときの痛みと違いはない。別に転んだときに危険だからという理由で批判しているわけではない。痛みに限らずとも、触感や温度感がここではありきたりなのだ。

 「養老天命反転地」は空想の産物である。そして空想である限りにおいて存在意義がある。実現してしまえば、そこからは何の新しい認識も生まれない。結局判断基準は、視覚のレベルに引き戻されるのだ。

 問い方を変える必要があるだろう。なぜそうしたものを実現したいのか。空想のままでとどまっているときが一番美しいのに。確かな形として、永続するものとして表現したいのかもしれない。それは表現者の宿命なのか。それとも、こうした迂回を経ることによってしか、形態の理念は表現され得ないということなのか。実際につくられるものは、こうした理念を浮かび上がらせるための仮設の装置なのかもしれない。

2010年05月06日

悪人往生とは

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 日本に入ってきた仏教は大乗仏教で、一般大衆を救いの対象としていましたが、それでも各人が悟りを開くためにはそれ相応の修行が必要でした。

 仏教の歴史の上で革命的といえるのは、やはり浄土教の誕生でしょう。念仏を唱えさえすれば、身分や財産や日頃の行状に関係なく、人は誰でも浄土に行けると法然や親鸞は説きました。救いを得るためには、善人であるか悪人であるかすら関係ありません。これで一気に仏教の裾野が広がっていきました。

 修行をして悟りを開くというとき、内面と外面は一致しています。他人がその人を見た場合もそうですし、本人にとってもそうです。善い考えは善い行動となって現れるはずなのです。宗教というのはたいていそうした内面と外面の一致を求めます。極端なのはキリスト教で、姦淫の気持ちを持っただけで、その人は姦淫を犯したのと同じだとまで言うわけです。

 これに対して浄土教は、内面と外面を分離します。内面はたとえ悪人であってもいいのです。そんなものは他人にはわかるはずのないものだからです。ただ外面で念仏さえ唱えれば、つまり外面さえ装えば、それでいいのです。

 これを偽善と見る考え方もあるでしょう。しかし内面と外面を分離することによって、はじめて内省というものが生まれるのです。外面は社会の規律に合わせる必要があっても、内面ではそれとは異なることを構想できる、これが近代的な個人です。悪人往生でいう悪人とは、近代的な個人のことです。救いは外部から与えられるものではなく、無限に内省を深めざるを得ないこの構造こそが「救い」と言えるでしょう。


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 「神の見えざる手」に導かれるように、市場を通じて物やサービスの最適な分配が実現されるとアダム・スミスは説きました。「神の見えざる手」を、数学を使ってもっとも美しい形にまとめたものが、ワルラスの一般均衡理論です。

 消費者や生産者といった経済主体が自分の利益を最大にするように行動すれば、社会全体にとっても最適な分配が、市場を通じて自動的に決まるというものです。最適な分配状態が均衡です。均衡を外れた状態がもしあるとすれば、市場の力によってただちに均衡に引き戻されます。そこでは均衡が正常な状態です。不均衡が是正されるのに時間は必要とされません。というより、不均衡とはあくまで仮想的なもので、見かけの上では均衡が永遠に続くのです。

 永遠に続く均衡という言葉は、天国、涅槃、浄土、悟りといった宗教の理想を思い起こさせます。争いや葛藤を超越したとき、そこでは時間がなくなるのです。それが永遠です。アダム・スミスが「神の見えざる手」という例えを使ったのは偶然ではないでしょう。経済学の理論は天国をモデルにしているのです。資本主義の発展の背景にプロテスタンティズムがあると、マックス・ウェーバーは述べました。しかしそれはプロテスタントの勤勉な道徳のせいではありません。彼らが認識した市場経済の仕組みが、宗教の構造と相似形だからです。だから今日グローバリズムとして見られるように、あたかも宗教を広めるかのように、世界の隅々まで市場経済を拡張しようとするのです。

 一般均衡理論に戻ります。各経済主体は、誰からも強制されることなく、自分の意思で自分の利益を最大にするように行動します。各人の自由な行動が、社会全体にとっても最適であることが理論的に保証されるわけです。しかしこの理論では、人類が市場経済にどうやって至ったのかや、市場経済に限界があるかどうかは説明できません。閉ざされた体系なのです。各人はその体系の中で自由を与えられているにすぎないのですが、あたかも自分たちの自由が世界を決定しているかのように信じます。結局はトートロジーの世界なのです。

 宗教も同じ構造を取ります。とりわけプロテスタンティズムにおいてそうです。信仰は各人に内面化されています。内面化されているということは、救いはすでにその人の中にあるということです。自分が救われるべき集団に入っているとき、救われるべきでない人など目に入らないでしょう。天国という理想の世界に人はひきつけられて当たり前だと考えるわけですから、それを信じない人の存在は、信仰をもった人にとってはあり得ないのです。

 宗教はどれも理想の世界を提示しますが、人がどうやって信仰を受け入れたり、それから離脱するのかを説明できません。これが宗教の最大のパラドクスです。このギャップを乗り越えるために捏造されるのが、「奇跡」と呼ばれる事象です。でも信じない人にとっては何の意味もありません。

 仏教において、修行や念仏によって、人は涅槃や浄土という理想の世界に至るとされます。その理想の世界は精緻に理論化されています。しかし、その理想に至るプロセス、つまり人がなぜ信仰を受け入れるかの説明は、その理論の中にはないのです。このパラドクスに気づいたのが、法然や親鸞だと思います。「悪人往生」における悪人とは、教化が遅れた人ではありません。信仰というトートロジーの外にいる人、信仰を持った人の目には映らない人なのです。もちろんその人たちが救われるように、代わりに祈ってあげましょうということではありません。悪人こそが往生するというのは、文字通り信仰を持たないことが信仰だということです。宗教のパラドクスを簡潔に言い表しているのです。法然や親鸞の思想が、実在の教団にどれだけ引き継がれているのかは知りませんが、宗教史において根底的な意味を持つのはこのふたりだと言って間違いないと思います。

 信仰を持たないことが信仰であるとは、同一平面上では成立しません。両立させるには、内面と外面の分離を必要とします。信仰を装った不信仰なのか、不信仰を装った信仰なのかは問いませんが、いずれにせよ2つのレベルを設定することが必要になるのです。従来、マックス・ウェーバー的な個人、あるいは一般均衡論でいう経済主体が、近代的な個人と見做されてきました。しかしそれに代わって、内面と外面に分裂した自己の方こそ、近代的な個人と呼ばれるべきだと思います。そして各理論もそちらに組み替えていく必要があります。

2010年04月21日

『プレイバック』

 レイモンド・チャンドラーの最後の長編小説『プレイバック』を読み返した。初めて読んだのは、確か中学生の頃だ。その時は、あまりおもしろいという印象はなかった。主人公フィリップ・マーロウの次の有名な台詞を意識することもなかった。

If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

 この台詞がどんな文脈で登場したのか知りたくて、この小説を読み返したというわけだ。読んでいくに従って、部分的に思い出す場面もある。だが誰が犯人だったのかという核心部分は思い出せないままだった。ジャンルで言えば推理小説なのに、ストーリーの核心部分を覚えていないのは奇妙なことだ。

 この台詞が登場するのは、事件が大方解決した後である。ハヤカワ・ミステリ文庫(清水俊二訳)では232ページ。

「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」と、事件の台風の目であった女が問いかける。マーロウの台詞はそれへの回答だ。

「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」

 「しっかりしていること」と「やさしいこと」とが、相いれないという前提が問いには含まれている。人が生きていく上では、どちらか一方しか選びようがないとでも言うように。

 マーロウの答えを見ていく。「しっかりしている」ことは生存のための条件だ。しかしそれだけでは意味がない。生存に意味を与えなければならない。「やさしくなること」は、生きることに意味を与えるということだ。物質と精神の二分法である。精神を上位概念にもって来ることで、相いれないものが統合される。強固な外面に守られることで、内面の純粋さが保証されるということだ。内面は直接に外面には反映せず、外面は内面を隠すバリアともなる。

 しかし彼女にとっては、「しっかりしていること」と「やさしさ」とは、あくまでも同じ平面上にあって相いれない。的確な判断や強引ともいえる行動力が「しっかりしていること」の内容だとすれば、「やさしさ」は弱さということになるだろうか。同じ平面上では、無原則に両者が交じり合うことなどあり得ない。この質問と答えが噛み合わないという構成こそが、実はこの小説の核心なのではないか。

 チャンドラーの小説は、マーロウの一人称で語られる。だから状況の描写は、彼を通して行われる。小説の中で内面を持つのは彼だけである。だから彼はあの台詞が言えたのだ。登場人物は、外面だけでお互いに接している。場面に投げ込まれたマーロウも、他の登場人物からは外面しか見えない。ストーリーが進行して行くためには、登場人物それぞれの動機と行動とが統合されている必要がある。その中でマーロウは、いわば特異点なのだ。

 女の問いかけは、一人称の語り手が特異点であることを暴露する。ストーリーの中に身を置きながら、同時にそれを外側から眺めているような視点。しかしそれは、ストーリーを意のままに出来る全能性を意味するのではない。作者の分身として投入されながら、それを逸脱し、別の存在感を獲得して行く。チャンドラーの小説のリアリティーは、このあたりに秘密があるのではないかというのが、今回読み返してみての感想である。

2010年03月28日

『カティンの森』

 1月に京都シネマで見たアンジェイ・ワイダ監督の映画だ。

 軍隊内で命令に従わざるを得ない状況、国家の独立を守るという大義、自己保身、名誉欲などに対抗して、人間の良心がどこまで耐えられるのかをこの映画は問いかける。

 しかし問題はそれほど単純ではない。人間の良心すらも、こうした状況に左右されるからだ。それが正しくないと知りつつ行動する人もいれば、それが正しいと信じて行動する人もいる。正しいという確信は、政治的な主義や国家の大義から来るのかもしれないし、それを疑う自分というのも、結局は別の主義や大義に軸足を置いているのかもしれない。

 カティンの森虐殺事件の真相を暴くこと、それは良心にかなった行為であるけれども、それはまた別の政治性を帯びてきて、新たに別の抑圧を生み出すかもしれない。すべてが円環のようにつながっている。これがカミュのいう「不条理」でなくてなんなのか。

 事件を告発する視点は、イデオロギーや国家ではもちろんない。それは個人に求められなければならない。しかも、たとえ作業仮説としてであれ、その個人は集団から切り離された個人でなければならない。集団から引き離された個人は、あまりにも無力だ。しかし、孤立した無力な個人の位置にとどまることによってしか、この事件の解明はできないのではないか。

 この映画を見て思い出したのは、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』である。舞台が同時代のポーランドであることも共通している。複雑に入り組んだ関係を整理するためには、視点の設定を必要とする。すべてを平等に見通せる純粋な視点の設定が可能かどうかというのが、小説のテーマだったと思う。主人公のオスカルは、大人の世界に染まることを拒否して、成長を止めてしまった。純粋な子供の目から見た大人の世界の醜悪さが描かれていく。大人の世界とは、ポーランドを巡る政治的な関係と読み替えることができる。

 しかし、そうした純粋な視点などというものはあり得ない。無邪気なオスカルは、天使であると同時に悪魔でもあるかのようだ。状況によっては、純粋さが人を傷つけることもあるのだ。「本当の自分」とか「純粋な良心」といったものを求めること自体に、すでに罠が仕組まれているのかもしれない。だとすれば、良心とは、完全な純粋さではなく、あるどこか一点で踏みとどまることではないだろうか。

2010年02月28日

『罪と罰』

 自分でコンプレックスを持っていることや自分の秘密を他人に指摘されるとき、たいていの人は不愉快な思いをするでしょう。隠しておきたい自分と見せたい自分とを区別し、見せたい自分だけで社会に適応しようとしているからです。

 しかし自分の両面、つまり隠したい部分と見せたい部分とを区分けできるということは、まだその人は自分を客観的に見る冷静さを持ち合わせているということです。ですから、隠したい部分を他人に指摘された場合でも、一時不愉快な思いはするでしょうが、そうした指摘を取り入れて新たな自分をつくりあげ、自分をいわば進歩させることも可能になります。つまり意識されていれば、問題の解決も可能になるということです。

 やっかいなのは、隠しておきたい自分が自分でも意識できていない場合です。これはその人が裏表のない人間であることを意味しません。無意識の内に隠された部分があるわけです。それを他人に指摘されると、過剰な防衛反応を引き起こします。意識されてはいないけれども、どこかに「引っかかり」はあるのです。それが刺激されると、本人に意識されていない分余計にいらだちを引き起こします。

 ラスコーリニコフと予審判事ポルフィーリイが火花を散らす場面というのは、結局はこういうことでしょう。もちろんラスコーリニコフには自分の罪という隠したいものがあります。でもその指摘が、意識された部分だけでなく、それを超えた無意識の部分にまで浸透してくるというところに、核心があります。個別の罪ではなく、人はなぜ生きるのかという原罪の部分にまで食い込んでくるのです。それがラスコーリニコフの錯乱を引き起こしたのだと思います。通常ならば、個別の罪の告白で済む話が、自分の意思を至上のものとするラスコーリニコフにとっては、内面の崩壊にまでつながることになるわけです。

 ラスコーリニコフとポルフィーリイのやり取りは、精神分析と言っていいと思います。ポルフィーリイは、証拠を握っているわけではありません。彼は仮説を立てているに過ぎません。しかし、それがラスコーリニコフに及ぼした効果を確認することで、その仮説の正しさをポルフィーリイは確信するのです。 精神分析というのは、本人が抑圧してしまった部分を、再構成して本人に提示し、本人がそれに気づくことで自己治癒を促すというものです。でも本人はそれを認めたくないので、精神分析医に反発したり迎合したりと、激しい抵抗を試みます。つまりラスコーリニコフの抵抗の強さは、ポルフィーリイの指摘が核心を突いていることの証明なのです。

 ソーニャとの関係ももちろん重要なモチーフですが、やっぱりポルフィーリイとの対峙がなかったら、この物語は成り立たないと思います。『罪と罰』は、自己中心的な妄想が、近代的な自我へと組みかえられていく過程としても読めるでしょう。誰しもが自分の隠したい部分というのを抱えているはずです。でも少なくともそれを意識化することで、社会との折り合いをつけていくことが可能になるのではないでしょうか。

2010年01月17日

『きらきらひかる』

 江國香織の小説である。ここ数日の間、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいるのだが、なかなかページが進んでいかない。そこで、傾向の違う小説を間にはさんで、気分を変えようと考えたのだ。

 夫を主語にした章と妻を主語とした章とが交互に繰り返されながら、物語は進行する。この語りの形式はどこかで見たことがある。『冷静と情熱のあいだ』だ。しかし『冷静と情熱のあいだ』は、主人公の男の視点を辻仁成が、女の視点を江國香織が担当していたから、男と女の視点がもともと異なるという前提があったし、それが物語の信憑性を担保していたと言えるだろう。『きらきらひかる』は、ひとり芝居である。男と女の視点を使い分けながらも、結局は江國の想像力の範囲内に物語はとどまる。

 似ているのはむしろ、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』かもしれない。作者の想像力によって構築された人工的な世界。そこでは、日常生活からの類推などは役に立たない。登場人物の行動が作者によって制御されているとすれば、結末は予定調和なのだし、そこにリアルな男と女の視点が現れるはずもない。われわれは、そこに書かれたことではなく、書かれなかったことを読み取らなければならない。作者が意図的に書かなかったこと、書こうにも書きようもないこと、そうした影の部分を浮かび上がらせることこそが、アルチュセール的な「読む」という行為なのだ。

 では、その書かれなかった部分とは何なのか。物語の進行上不可欠にも関わらず、そこに欠けているもの。それは、主人公の睦月と笑子の出会いから結婚までのプロセスである。たしかに見合いの場面は回想という形で描かれている。しかしそこから結婚にいたる心理の描写はなく、もともと二人が結婚しているという前提から物語は始まる。二人がなぜ惹かれあうのかがテーマだというのに、その始原は描かれない。物語は、始まりを持たないトートロジーなのだ。円環をずっと繰り返すだけである。物語は、始まったときには、すでに終わっている。この小説の本当のテーマは、この書かれなかった始原である。闇の中での飛躍としか言いようのないもの。

 物語は、始まったときにはすでに抜け殻になっている。同性愛者の睦月と情緒不安定でアルコール依存の笑子。睦月には同性愛の恋人・紺がいる。セックスは睦月と紺との間にはあり、睦月と笑子の間にはない。こうした関係は三人の間で了解済みである。これは、睦月と笑子との間のセックスを離れたプラトニックな愛を取り出すための舞台設定なのだ。さらに、紺が睦月の「影」であり、人間の完全さは「影」に支えられているという解釈を付加することも可能だろう。だがこれだけでは、単なるきれいごとに過ぎない。ではわれわれの現実と、この物語とはどう結びつくのか。

 三人は、睦月を間にはさんで一直線上に並ぶ。プラスとマイナスとが引き合うとすれば、睦月をプラスにした場合、「マイナス-プラス-マイナス」という配列になる。マイナス同士は引き合わないから、この直線はひとつの完結した形のように見える。しかし、物語が進行するうちに、この直線はそのままではいられなくなる。笑子と紺との間に感情が芽生えるのだ。それはお互いの睦月との関係を維持するために手を結ぶというような関係である。これを友情と呼ぶのかもしれない。こうして両端のマイナスとマイナスとがつながり、円環ができる。三人の関係はこうして完結し、他からの介入を許さないものとなる。この小説は、閉じないはずの円環が閉じるというモデルなのだ。紫色と赤色は、分光分布では直線の両端に位置するのだが、それがつながって隣り合わせになると、マンセル色相環ができる。それとまったく同じ関係である。

 円環として完成してしまえば、それがつながる前の状態を思い浮かべることは難しい。しかし、確かにそれがあったはずなのだ。円環が閉じる直前のリアリティーを、われわれは閉じた円環の中にいながら想像しなければならない。閉じないはずの円環が閉じるという論理をさらに遡って適用してみよう。この物語が始まる以前の睦月と笑子との出会いについて。そこには、作者ですら決められない深淵と飛躍があるはずなのだ。出会うところまでは周囲がお膳立てしたものであったとしても、そこから先は何も導くものはない。結局暗闇の中での飛躍しかありえない。それ以前とそれ以後は不連続なのである。結局恋愛を支える根拠など何もない。

 江國香織の小説を読んでいて感じる刹那さのようなものは、この根拠のなさにあるのだろう。一見幸せそうな会話や生活も、一歩足を踏み外せば、根拠のなさという闇に沈んでしまう。今隣にいる人がこの人でなければならないという必然性もないし、その人は次の瞬間には自分から遠ざかっていくのかもしれない。出会いが不連続点であったということは、現在の関係が過去からの積み上げではないということを意味しているのである。

 白雪姫等の童話は、徐々に関係を積み上げつつ、結婚というゴールに向う。そのプロセスが劇的であることによって、ゴールした後の幸せが永遠に続くことが示唆される。しかし江國の小説ではこの関係が逆転していて、結婚がスタートになる。スタート以前に何かがあったことは確かだが、それは語ることができない。物語は常に、根拠づける過去を失った現在進行形である。何が正しいのかわからないまま、手探りで進んでいく。それは登場人物も作者も同じことである。そこに彼女の小説のリアリティーがある。

2010年01月09日

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 村上春樹に対しては、場面設定や登場人物の行動が不自然だとか、心理描写ができていないという批判が為されますが、そうした批判は無意味でしょう。彼の小説は寓話なのです。イソップ寓話同様、登場人物は擬人化されたキツネやカエルであっても一向に構いません。登場人物は、理念を単純化して物語の中に配置したというだけなのです。彼らは自身の内面によって行動するというよりは、あらかじめ決められたストーリーに従って動きます。そうしたストーリーを読ませるのが村上の小説です。

 次に為される批判は、登場人物が作者の意図通り動くならば、小説は作者の内面の吐露に過ぎず、閉じた枠から出られないだろうというものです。確かにそうした側面はあります。だから彼の世界に共感できる人と共感できない人とに二分されるのでしょう。ハードボイルド小説を読んでいるような気分を覚えることもあります。しかし、彼の小説の意味はそれだけではないでしょう。自身が創作した登場人物を意図通りに動かしながら、実はそうした意図が破綻する地点を目指しているように思われます。徹底した虚構性に依拠しながら、虚構が破綻する一点に現実を接続しようとしているのです。というよりも、われわれが目にしている現実というものも実は巧妙につくりあげられた虚構かもしれず、それを虚構だと認識したとき初めて、別の世界の存在とに気づくという構成なのです。彼の小説の意味は、ですからそこに書かれていないものにあります。それが寓話というものです。

 「終りの世界」と「ハードボイルド・ワンダーランド」というふたつの世界が設定されます。それぞれで起こる出来事が、互いに無関係であるかのように交互に描写されていきます。ふたつの世界の地理的な関係や時間的な関係はわかりません。しかし読み進むうちに、ふたつの世界が実は同じもので、別のフィルターを掛けることで別の世界に見えているだけだろうとか、ふたつの世界は裏と表の関係ではないだろうかとか、そうした想像が膨らんでいきます。

 ふたつの世界の関係をどう図式化するか、そこにこの小説の一切が懸かっています。「終りの世界」は、争いや不安のない安定した世界です。しかしそこには何かが欠けています。その欠けているものとは、情動(小説の中では「心」と呼ばれています)です。情動を捨て去ることと引き換えに、人々は平和と日々の満足を得るのです。しかし登場人物は、そうした世界ではない世界を希求します。人間が情動を持った世界を。「ハードボイルド・ワンダーランド」はその裏返された世界です。人々は自分の欲望に従って行動します。現代社会の写しです。ここで欠けているものは、本質です。深層心理とかアイデンティティーと言い換えることもできます。日々の生活の中で見失っている本当の自分。

 どちらの世界においても、登場人物は自分探しの旅をしているわけです。ふたつの世界は、一方が欠いているものを他方が持っているという関係にあります。どちらが優位というのではありません。だから一方が他方に包含される関係ではありえません。

 今ある世界に欠けているものを追い求めるだけならば、それにはいろいろな方法があります。イデオロギーと呼ばれるものがそうだし、宗教もそうです。その世界に欠けているものとは、結局はその世界の原理や創造者ということになります。たいていの小説は、そうした結論に行き着くわけです。

 村上はそうした結論を否定したいのだと思います。ふたつの世界が相互に依存しあっている図式においては、お互いが根拠にしているものが無限に往復し合い、根拠は意味を失います。自分探しの無意味性。意味を与える超越した存在などあり得ないと認識すること、それが新たな出発点となります。こうした認識は、共同幻想ではなく、対幻想ということになるでしょう。

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